Raizo's Blog

陰謀論からみた叛逆者たちの物語 〜その末路と隠された真実〜

宝石ジャラジャラ発言【その1】(John Lennon 01)

  1963年11月4日にビートルズは初めて英国王室の前でコンサートを行った。ビートルズのデビューは1962年の10月なので、まだ1年過ぎてすぐの頃だ。
 
 デビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」こそ、今ひとつの売れ行きだったものの、翌年1月に発売された2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」と3月に発売された最初の同名アルバムは大ヒットする。
 アルバムからシングルカットされた4月発売の3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」が初のチャート1位に昇りつめると、続く8月発売の3枚目のシングル「シー・ラブズ・ユー」も連続1位を獲得した。
 
 10月には1500万人が視聴するイギリスのテレビ番組に出演、その人気を決定つける。デビューからのわずか1年で、ビートルズはイギリス音楽シーンの中心にいた。
 
 ただし人気絶頂とは言え、当時はまだアイドルバンドにしか過ぎない。それがデビュー後わずか1年でいきなり王室御前コンサート(Royal Varaiety Concert)への出演できるのは、やはり普通ではない。


 このコンサートは当時は年1回開催されている。イギリスの有名な音楽家が出演するチャリティーのような内容であったが、いわゆるロック関係のミュージシャンが出演するのは初めてだった。
 
 ヒットチャート連続1位のバンドとはいえ、当時のロックミュージックの社会的な地位、アートの世界はもちろんエンタテイメントにあっても、普通は考えられない出来事だったはずだ。
 

陰謀論の視点で言うと、デビュー時点はともかく、この頃のビートルズはすでに「カウンターカルチャー(大衆文化)を先導する」役割を与えられていたのだろう。


 この出来すぎたサクセスストーリーには、ビートルズを筆頭とする60年代のイギリスのロックムーブメントが、誰かが何らかの意図を持って作り出されていたのではないか、という陰謀論と重ね合わせてしまう。
 
 イギリスのカンターカルチャーがアメリカを席巻していく、「ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion、イギリスの侵略)」。その筆頭にいたのが、ビートルズ。
 
 そして、ロンドン発のこの「インヴェイジョン(侵略)」は、アメリカの西海岸に飛び火し、世界中に広がっていった。
 
 誰かが、何かの意図を持ってこの「インヴェイジョン(侵略)」を起こしたとするなら(陰謀論!)、それにはどんな狙いがあったのか? 実際に何が起きたのか? そして、誰によって起こされたのか?
 
 ムーブメントの当事者である若いミュージシャンたちは、そんな企みがあることにも、誰が仕掛けているのかも、この黎明期には気づくことも、考えることもなかっただろう(一部の上流社会出身を除いては)。

 

 ちなみにブリティッシュ・インベージョン(英国の侵略)のムーブメントとなるバンド群のデビューはすでにデビューしていたローリングストーンズ以外はこの王室御前コンサートの直後に続いていく。

 

【各バンドのデビュー年月】

ビートルズ: 1962年11月

ローリングストーンズ: 1963年6月

マンフレッド・マン: 1963年7月

デイヴ・クラーク・ファイヴ: 1963年11月

ザ・フー: 1964年2月

キンクス: 1964年2月

アニマルズ: 1964年3月

ヤードバーズ: 1964年5月

ピーター&ゴードン: 1964年5月

ゼム: 1964年5月

マリアンヌ・フェイスフル: 1964年6月

 


 
 地方都市(リバプール)から出てきたばかりで、スターをめざすビートルズにとって、これは値千金のチャンスであったことも間違えない。
 とはいえ、この時4人は二十歳過ぎ。普通ならかなりのナーバスな状態になってしまうだろう。
 
 そんなものすごいチャンスを得た舞台。そこに上がった23歳になったばかりの野心に燃えるジョン・レノン。生来からの叛逆児は、たとえ王室や貴族の面前だろうが、黙っていられるはずはなかった。
 
 筆者の定義ではこの「黙っていない」(口に出す出さないはともかく)というのが叛逆者たるゆえん。
 叛逆者たるものは、本能的に直感的にこの「黙っていてはいけない」という瞬間を捉え、咄嗟に実行に移せる才を持っていると思う。
 ジョン・レノンはその最たる人だ。暗殺されるまで、これをやめなかった(休んだことはあった)。
 
 この「宝石ジャラジャラ発言」については、あまり、そういう解釈はされていないのだが、これは最初の象徴的な事件だと、筆者は考える。
 
宝石ジャラジャラ発言【その2】に続く
 
©︎ 2023, Raizo