Raizo's Blog

陰謀論からみた叛逆者たちの物語 〜その末路と隠された真実〜

「エリナー・リグビー」の真実【その7】(John Lennon 12)

「エリナー・リグビー」の真実【その6】の続き

 

  メイ・パンについては、また取り上げるとして、話を「エリナー・リグビー」に戻そう。

 

 映画とツアーで稼ぐアイドルバンドとして世界一の売れっ子となったビートルズ。彼らの創り出す音楽は、前作の「Rubber Soul」から大きく進歩を遂げる。言葉、メロディー、演奏、サウンドのあらゆる点で、格段の「変化と進化」を遂げる。

 その「変化と進化」によって、ビートルズは人気だけでなく実力の点でも当時の音楽シーンをリードし、名実ともに時代を代表するバンドになっていく。今となっては、時代を超えてポピュラー音楽を代表する唯一無二の存在といっても差し支えない。

 

 しかし、ポールとの共作については、この時期には行き詰まっていたと、亡くなる前のプレイ・ボーイ誌のインタビュアーの質問に答えている。 

 

 「ソロでの活動に自信を持っていると言っているが、4人一緒であることの方が個人より創造性の面では勝るのではないか?」というのがその質問だ。

 

 これはビートルズの偉大さを語るときに必ず出てくるクエスチョンだ。

これはこれで核心をついているのは間違えない。筆者(Raizo)の疑問は「しかも4人だけじゃなかっただろう?」である。

 

 60年代の中頃には、ポールもぼくも歌を創り出す創造性を失ってしまっていたんだよ。一緒に歌を作っていた初期のころは、人間が知り合った頃のようなものだった。ふんだんにエネルギーを注ぎ込んだんだ、『サージェント・ペッパー』から『アビー・ロード』の時期に、この関係は成熟していったんだ。ずっと、一緒にやっていたら、面白いものが出てきたかもしれないけれども、初期のころと同じではありえないよ。

(『ジョン・レノン Playboy インタビュー』(集英社)から、以下同様)

  

 ポール・マッカートニーは「エリナー・リグビー」の詩を完成させてくれと、そこにいたスタッフに言ったのは、そういう作業が当たり前になってきていたからだ。

 

「それでも、一部はいっしょに書いたんだよ。彼は中間のところが書けなかった、ほら、 "AHH, LOOK AT ALL THE LONELY PEOPLE"ってとこさ。ポールとジョージとぼくとで色々こねくりまわしている時、ぼくはトイレに行こうと思った。その時、誰かがそのフレーズを口にした。 ぼくはふりむいて、 「それだ!」って叫んだんだ。」

 

 マル・エヴァンスは同じリバプール出身で、初期からビートルズのロードマネジャーとして公私にわたってビートルズのメンバをサポートしてきた。そして、楽曲のコンセプト作りや作詞については、創作面で貢献していたことは、本人以外の証言からも間違えない。特に「サージェント・ペッパーズ」以降のポールの作品への貢献は顕著なものがあったのだろう。

 

 そして、作詞に限らずビートルズの制作活動は、メンバー以外の外部に頼る度合いが後期にいくほど大きくなっていっていったのは間違えない。『エレナ・リグビー』はビートルズのメンバーが誰も楽器を弾かずに歌だけを担当して録音された初めての曲でもある。

 

 作曲や編曲については、クラウス・フォアマンの貢献もかなりあったのだろう。フォアマンは『リボルバー』のジャケットをデザインしたことで有名だが、解散後のビートルズのメンバーのソロアルバムでベーシストとして活躍している。特にジョン・レノンの「ジョンの魂」と「イマジン」の最初の2作はクラウス・フォアマンが全曲でベースを弾いている。

 

 一方で、『リボルバー』前のアルバム『ラバーソウル』から、ビートルズはアルバム制作を完全にコントロールするようになったとジョン・レノンは言っている。こういった外部スタッフの活用を含めて、ビートルズ自身がセルフ・プロデュースをするようになっていた。そして、リボルバーではまだその主導権がジョン・レノンにあった。

 

 「エレナー・リグビー」は作曲と編曲、そして演奏に至るまで、外部の力に頼っている。これは、この次の『サージェント・ペッパーズ』でも見られるし、「ホワイトアルバム」に至っては、ビートルズの各メンバーが外部スタッフと共にそれぞれの作品を作り上げていったとも言える。

 

 こういった、解散後も長期にわたって関係が続くメンバーはもちろん、ビートルズの後期には、それ以外にもたくさんの協力者がいたに違いない。

 

 そして、ポール・マッカートニーはその協力者のうちの一人が、ある時から代役を務めるようになって、そのうち入れ替わったのだ。

 この代役には、ポール以上に音楽的な能力があった。それと、外部の活用によって、後期のビートルズの「変化と進化」は成し遂げられた。

 

 「ポール死亡説」で言われる、66年の米国ツアー後に事故でポールが死亡して、その後に代役を見つけてきたというのではない。その前から代役はいて、ちょうどこの『リボルバー』制作時から代役が台頭してきたのではないか。

 

 そこは、よく言われるようなアルバムのジャケットや楽曲にある暗号のように仕込まれたサインではなくて、ポール・マッカートニーの特徴の変化やビートルズの中での役割の変化を、当時の出来事と重ねて見た方が、真実に近づけると思う。

 

ポール・マッカートニーの変貌と変節【その1】に続く

 

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