「エリナー・リグビー」の真実【その4】からの続き
「そのかわりに、あの時、『オイ、君たち、詞を書き上げちゃってくれよ』とぼくらに声をかけたんだ。EMIのどでかいスタジオの向こうで、録音をしたり、アレンジや、何か他の事をしながらね。その時、ぼくは、昔、電話工事をやっていたロードマネージャーのマル・エヴァンスと、そして後のロードマネージャーだがその頃は会計士見習いだったニール・アスペノールといた。ポールは、この3人に向ってそう声をかけたんだ。ものをそのへんにほうりなげるみたいなやり方を彼にされて、ぼくはばかにされたような気がして、傷ついた。彼は実際はぼくに詞をつけてくれと言おうとしたんだけど、彼は、頼もうとしなかった。ぼくが頭にきたのは、末期の頃のボールのこういった無神経さなんだ。彼はとにかくそういう男だった。彼にとってはそんなことはどうでもいい事なんだ。ぼくはさしせまって一曲作らなければならなかったから、そこにあったテーブルに、彼らといっしょに座りながら曲を書いたんだ。ボールはなんで、あんな風なやり方をしなきゃならないんだろうと思いながらね」
(『ジョン・レノン Playboy インタビュー』(集英社)から、以下同様)
この時、ポール・マッカートニーは、「ぼく(ジョン・レノン)に詩をつけてくれ」と直接は頼まずに、ロードマネージャーのマル・エヴァンスと、後のアップルコアの社長になるニール・アスピノールに言っている。
ニール・アスピノールは解散後も長期にわたってビートルズが1968年に設立したアップルレコードをはじめとする事業会社アップルコアの代表をビートルズ解散後も務めた(2008年死去)。
「彼らといっしょに座りながら曲を書いたんだ」と、ジョン・レノンはこの歌詞はポールが作ったのではなくチームでの作業だということをはっきり言っている。そして、そのメンバーがマル・エヴァンスと、ニール・アスペノールであることまで。
マル・エヴァンスはこの頃からポール・マッカートニーとは特に近しく、付き人のようになる。アフリカやフランスへの渡航に同行したり、ポールの家にいっしょに住むまでになっている。ポール主導と言われる『リボルバー』の次作の『サージェント・ペッパーズ』と続く『マジカル・ミステリー・ツアー』ではコンセプト作りからマル・エヴァンスはかなり関わっている(楽曲作りもかなり手伝ったと本人は主張している)。
筆者はポール・マッカートニーはこの時期(1966年から67年)に替え玉(ダブル)に入れ替わっっていったと考えているが、ライブツアーを中心にビートルズのメンバー全員の面倒を見ていたマル・エヴァンスが、ビートルズのツアー中止と共に、ポール・マッカートニーの面倒をみる(創作面を含めて)ことにかかりっきりになっていることを注目する。
マル・エヴァンスは1976年にロサンジェルスで警官に撃たれて亡くなる。死ぬ直前にビートルズに関する本を出版しようとしていたことや、亡くなる直前に本の共著者にポール・マッカートニーから著作権料の一部をもらえることになるようなことを伝えていたりなど、その死には怪しい点が実に多い。
その後にこの本は原稿が行方不明になり出版されないままとなっていた。2021年に遺族の手によって出版されることが決まったとニュースになった。その後も、いっこうに出版されないままだったのだが、ようやく来月(2023年11月)に発売されるようだ。
1976年に出版されようとした本が、その出版の直前に著者が亡くなり、原稿が遺失したこと。その後にマル・エヴァンスの遺族がビートルズの楽曲の作詞をしたノートの原本がオークションに出されて、ポール・マッカートニーがその所有権に異議を申し立てている。出版にこぎつけるのに、これほどの時間がかかることは、マル・エヴァンスの存在、彼が遺したものに、「隠された真実」があったという想像を禁じ得ない(かなり検閲が入った可能性も高いが)。
* 日本語版も2024年9月28日に発売された。
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